終わらせてはいけない問題
2018-08-20
西日本の各地を記録的な豪雨が襲った7月6日、オウム真理教の松本死刑囚ら7人の刑が執行された。
途方もなく苦い後味しか感じない。逮捕されてから23年もたっての刑執行。果たして本当にこれで良かったのだろうか。
一連の犯罪そのものは許されるものではないし、教団の存在を大きくした社会状況を考えるにつけ、私はこれで何かが収まったという感覚は持てない。オウムに引き寄せられた若い人たちの心のありようを、改めて問い直す必要があると思う。
また、遺族や後遺症に悩む被害者の中には、今回の死刑執行で「やっと終わった」とか「ほっとした」と感じた人もいる。その気持ちを想像するに、死刑という制度には、被害者側の心情を落ち着かせる一定の力があることを認めざるを得ない。それがこの制度を維持する唯一の意味だと、私は考える。
そもそも死刑制度の是非問題は宗教、哲学、国情などが複雑に絡む極めて重いテーマだ。実際は死刑廃止が世界的な潮流にもなっている。
突然ですが、死刑制度について考えたことありますか?
あなたは死刑制度に賛成ですか?それとも反対ですか?
これらは、こんな究極の問いにも繋がる。もし自分の家族が殺されても、報復の感情を乗り越えて「犯人の処刑は望まない」と言い切れますか?、と・・・。
正直なところ私自身は、乗り越えられそうにない。
またその究極の問いに〝ひとつの正解〟はない。それでも突き詰めて考えてきた人々は、国内外に大勢いる。そのことも改めて考えさせられている。
豊かになったはずの平成のニッポン社会に突如出現し、犯罪史上類を見ない無差別テロ事件にまで突き進んだオウム真理教。教団の標的は経済のグローバル化やバブル経済に伴うエリート層の若者の孤独感や将来への不安だと言われている。そこをつかれた多くの若者が、強固な思想的背景のないオウムに取り込まれ、平然と他者の命を奪う行為に手を染めていった。人々の心の隙間こそが現代社会において最大のリスクであり、最も悲しい物語を生んでしまうという証か。
オウム真理教による一連の事件があぶり出した社会の病とはいったい何だったのか。その教訓は果たして生かされているのか。ニッポン社会は痛切にそのことを顧みるべきだと思う。
だから、この刑の執行をもって、この問題を終わらせてはいけない。





