AIの時代に私が書く意味
2026-03-04
何気なくスマートフォンを眺めていると、「AIが書いた記事」「AIが作った音楽」「AIが描いたイラスト」といった文字が、もはや珍しくもなく目に入ってくる。速いし、そこそこ上手い。正直に言えば、感心することも多い。
けれど、そんな世の中だからこそ、ふと思うのだ。こうしてコラムを書いている自分ってなんなんだろう…、と。
私が書く文章には、たぶん、いや、間違いなく「無駄」がある。言い直し、ためらい、ちょっとした脱線。結論に行くまでの遠回り。効率だけを考えれば削ってしまえそうな部分が、簡単に削れない。コラムを書き始めて20年にもなるのに、いまだに基本的なことは変わっていない…。
先日、古い友人からお土産だといってモノが届いた。その中に手紙が同封されていた。手紙には、ところどころインクのかすれや書き損じの跡があった。「最近どう?」の一言に続く近況報告は、特別ドラマチックでもない。ただ、仕事で失敗した話や、旅行先で驚いた体験が、少し照れたような筆跡で並んでいた。
完璧じゃない。むしろ、不格好だ。でも、そこには確かに「体温」があった。
人間は、間違える。言葉を選び損ねるし、言わなくていいことを言ってしまう。それでも、いや、だからこそ、その言葉は誰かの胸に引っかかる。整いすぎた文章よりも、少し崩れた一文のほうが、記憶に残ることだってある。
効率と最適化が重んじられる時代に、これからも遠回りする勇気は持てるだろうか。すぐ答えに辿り着かなくても、考えながら書くことを許してもらえるのだろうか。
AIが文章を書く時代に、人間が書く意味は「上手さ」ではないのかもしれない。
迷いながら紡いだ時間そのものが、価値なんだと思う。
今日もまた、キーボードの前で少し立ち止まる。消しては打ち、打っては消す。その繰り返しの中で、「うまく言えない何か」に手を伸ばす。
もしかすると、それこそが、私(人間)にしか書けない一行なのかもしれない。
けれど、そんな世の中だからこそ、ふと思うのだ。こうしてコラムを書いている自分ってなんなんだろう…、と。
私が書く文章には、たぶん、いや、間違いなく「無駄」がある。言い直し、ためらい、ちょっとした脱線。結論に行くまでの遠回り。効率だけを考えれば削ってしまえそうな部分が、簡単に削れない。コラムを書き始めて20年にもなるのに、いまだに基本的なことは変わっていない…。
先日、古い友人からお土産だといってモノが届いた。その中に手紙が同封されていた。手紙には、ところどころインクのかすれや書き損じの跡があった。「最近どう?」の一言に続く近況報告は、特別ドラマチックでもない。ただ、仕事で失敗した話や、旅行先で驚いた体験が、少し照れたような筆跡で並んでいた。
完璧じゃない。むしろ、不格好だ。でも、そこには確かに「体温」があった。
人間は、間違える。言葉を選び損ねるし、言わなくていいことを言ってしまう。それでも、いや、だからこそ、その言葉は誰かの胸に引っかかる。整いすぎた文章よりも、少し崩れた一文のほうが、記憶に残ることだってある。
効率と最適化が重んじられる時代に、これからも遠回りする勇気は持てるだろうか。すぐ答えに辿り着かなくても、考えながら書くことを許してもらえるのだろうか。
AIが文章を書く時代に、人間が書く意味は「上手さ」ではないのかもしれない。
迷いながら紡いだ時間そのものが、価値なんだと思う。
今日もまた、キーボードの前で少し立ち止まる。消しては打ち、打っては消す。その繰り返しの中で、「うまく言えない何か」に手を伸ばす。
もしかすると、それこそが、私(人間)にしか書けない一行なのかもしれない。





