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社長のコラム 「しゃコラ」

呉空襲の証人

2025-07-01
今年は、戦後80年という節目の年。あの戦争が今の時代に伝えなければならないものは何なのか…。

当社は、太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)7月1日未明の呉市街地大空襲で本社を全焼。その空襲で焼け残った金庫を今も大切に現役の金庫として使用している。熱で溶けた鉄の生々しい爪痕が金庫の側面に残っていて、当時の空襲の凄まじさが伝わってくる。

呉市街地大空襲があった当時、金庫は現在の呉市中通1丁目にあった中通市場の事務所に置いてあった。横幅0.94m、奥行き0.82m、高さ1.75mで、重さ約1.2トン。左側面の一部が焼夷弾の熱で溶け、凹凸ができている。鉄にもいろんな種類があって、大半は1,500度ぐらいで溶け出すとのこと。

金庫は1938年(昭和13年)の会社設立時には既に当時の中通市場に設置してあった。空襲前に入れていた株主総会議事録や決算書などは無事だった。今も契約書や保険証書などの書類と一緒に大切に保管してある。

軍港都市だった呉への攻撃は1945年3月19日が最初で、5、6、7月までに計6回、大規模な空襲があった。呉市の記録では、7月1日深夜から翌2日早朝にかけての焼夷弾による空爆が最も規模が大きく、犠牲者も約2,000人に上り、市街地は壊滅的な被害を受けたようだ。
戦争という国家の行う大きな波に飲み込まれ、苦しい耐乏生活を強いられ、自由を束縛されて、したいこともできず、空襲の爆撃におびえ、多くの人が戦災死傷し、財産を失うなど、大変な被害を受けた。当時、四つ道路にあった実家もこの空襲で全焼し、一家は揃って天応に疎開する羽目に。

会社が空襲で全焼しても仮店舗を海岸通りに移して終戦まで営業。戦後は呉市中央卸売市場が開市するのに合わせて築地町へと移転し、1982年(昭和57年)から現在の光町の呉市地方卸売市場に事務所を構えている。

移転を繰り返しても決して曽祖父、祖父、父と先人たちは焼け残った金庫を手放すことはしなかった。そこにはあの空襲を体験した者にしか分からないことがあるのかも知れない。今ではあの戦争を経験した人は減ってしまい、呉市街地大空襲を語り継ぐ生存者も皆んな高齢化している。

当社はこの焼け残った金庫を今後も大切に使い続けることで、空襲の恐ろしさ、焼け跡の記憶、戦争の悲惨さを後世に伝えていくつもりだ。


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