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しゃコラ2018

しゃコラ2018

2018/09/13 子育てを楽しむ

 

産後、実家に里帰りしていた妻と子供を我が家に連れて帰り、新しい3人での生活が始まってひと月。
このひと月の間、待っていたのは思いも寄らなかった自分自身の変化だった。


おしめを替えたり、お風呂に入れたり、ミルクを作って飲ませたり、泣き止まないときは思いっきりの変顔で機嫌を取り、それでも泣き止まないときは、抱っこして外に連れ出す…。そんな子供の扱い方に戸惑う私の姿を見て妻は言った。


「ようやく私の気持ちがわかったね…」


その一言が、私に大切な気づきを与えてくれた。知識として知っている子育てと、当事者になって体験する子育ては全く別物だったのだ。親になるということがどういうことなのか、いい歳をしていながら私は、本質的なことが理解できていなかった…。


そこから夫婦で支え合うために試行錯誤する毎日が始まる。


私自身が子育ての当事者となったため、妻がスムーズに家事をこなすための改善策を考えるのも容易になった。自分ができなくなったことをやれるようにする工夫が、そのまま妻にも当てはまったからだ。


ひとりで妻を支えようと思わず、お互いの苦手な部分を補い合うようにしただけ。その結果、妻よりも私の方が劇的に楽になったのだ。


子育ては決して特別なことではない。まして苦にはならない。まずは楽しむこと。これなんですね。

でも、さすがにちょっと眠い…。

 

 

 

 

2018/08/20 終わらせてはいけない問題

 

西日本の各地を記録的な豪雨が襲った7月6日、オウム真理教の松本死刑囚ら7人の刑が執行された。
途方もなく苦い後味しか感じない。逮捕されてから23年もたっての刑執行。果たして本当にこれで良かったのだろうか。


一連の犯罪そのものは許されるものではないし、教団の存在を大きくした社会状況を考えるにつけ、私はこれで何かが収まったという感覚は持てない。オウムに引き寄せられた若い人たちの心のありようを、改めて問い直す必要があると思う。


また、遺族や後遺症に悩む被害者の中には、今回の死刑執行で「やっと終わった」とか「ほっとした」と感じた人もいる。その気持ちを想像するに、死刑という制度には、被害者側の心情を落ち着かせる一定の力があることを認めざるを得ない。それがこの制度を維持する唯一の意味だと、私は考える。
そもそも死刑制度の是非問題は宗教、哲学、国情などが複雑に絡む極めて重いテーマだ。実際は死刑廃止が世界的な潮流にもなっている。


突然ですが、死刑制度について考えたことありますか?

あなたは死刑制度に賛成ですか?それとも反対ですか?

これらは、こんな究極の問いにも繋がる。もし自分の家族が殺されても、報復の感情を乗り越えて「犯人の処刑は望まない」と言い切れますか?、と・・・。


正直なところ私自身は、乗り越えられそうにない。


またその究極の問いに〝ひとつの正解〟はない。それでも突き詰めて考えてきた人々は、国内外に大勢いる。そのことも改めて考えさせられている。


豊かになったはずの平成のニッポン社会に突如出現し、犯罪史上類を見ない無差別テロ事件にまで突き進んだオウム真理教。教団の標的は経済のグローバル化やバブル経済に伴うエリート層の若者の孤独感や将来への不安だと言われている。そこをつかれた多くの若者が、強固な思想的背景のないオウムに取り込まれ、平然と他者の命を奪う行為に手を染めていった。人々の心の隙間こそが現代社会において最大のリスクであり、最も悲しい物語を生んでしまうという証か。


オウム真理教による一連の事件があぶり出した社会の病とはいったい何だったのか。その教訓は果たして生かされているのか。ニッポン社会は痛切にそのことを顧みるべきだと思う。


だから、この刑の執行をもって、この問題を終わらせてはいけない。
 

 

 

2018/07/18 試練の先にある希望

 

平成30年7月6日、西日本を中心に広い範囲で、豪雨による河川の氾濫や洪水、土砂災害などの被害が発生し、多くの犠牲者が出た。
その豪雨災害で明らかになったのは、私たちが潜在的な危機を内包した社会で暮らしている、ということだ。しかもその危機は都市機能障害というかたちで一気に爆発した。行政、情報、交通、物流、経済が次々に崩壊していくことで、大きな危機がうねりのように現れたのだ。


一方で災害についての報道が進むにつれて、次第に私たちは「希望」という言葉を見聞きするようになる。過酷な状況の中で、被災者や関係者の多くが何らかの「希望」を必要としてくるのか。


作家の村上龍氏は、東日本大震災後に大地震と津波は多くの生命と財産を奪っていったが、一方でニッポン人は再び「希望」の種をまこうとしている、というようなことを言っていたのを思い出した。


危機の被災地にまかれつつある「希望」の種は、今後どうすれば実を結ぶのだろう。過酷すぎる状況では、むしろ最初から途方もない「希望」を持つのを控えることも大事かもしれない。


「希望」には、人と人のつながりが重要な役割を果たす。ボランティアなどの支援者たちが現地に入り、さまざまな交流が生まれている。このような事態になった時、被災地を支えるのは、人々の連帯、結び合いというものであることは明らかだ。破滅を食い止めるのは、地域のコミュニティーの強さや多くの人たちの連携なのである。


連日、酷暑の中、全国から駆けつけ、撤去作業を手伝う多くのボランティアには頭が下がる。今やボランティアは被災地とって、なくてはならない存在となっている。


私たちの社会は、安定した戦後システムが崩れていくこの20年の間に、大きく変わり始めていた。他者のために生きることの中に人間らしさを感じる人が若者を中心に増えている。それがボランティアやNPOの時代をつくり出し、コミュニティーをつくり直そうとする行動として、全国的に広がっていた。各地で始まっていた人々の結び合いが、今回の災害で、広域的に発揮されている。結び合いは、点で存在するうちは国を動かせないが、広域的に実現すれば、次の社会の姿が見えてくるだろう。
ここにこそ、復旧、復興の可能性があると思う。私たちが目指さなければならないのは、国のシステムによる画一的な再建ではなく、農村、漁村、都市部など風土にあった支え合う地域社会の再建ではないだろうか。


いつまでも今の状況が続くわけではない。「希望」は、試練や困難をくぐり抜けた先にきっとあるはずだ。被災者には、それを信じて生活していただきたい。

 

 

あとがき

 このたびの西日本豪雨災害により、お亡くなりになられた方々へ謹んで哀悼の意を表し、ご遺族の皆さまにお悔やみを申し上げますとともに、被害に遭われた皆様に心よりお見舞い申し上げます。
今もなお予断を許さない状況が続いております。被災された方々が安全を確保し、これ以上の被害が広がらないことをただただ祈るばかりです。この苦難を乗り越え、一日も早く復興されますよう、心からお祈り申し上げます。

 

 

2018/05/21 選択と忖度

 

後悔先に立たず、とはわかっていても、あの時、もし違う選択をしていたら、こんなことにはならなかったかもしれないと、悔やんだ経験はないだろうか。進学や就職、恋愛や結婚といった大きな物事だけでなく、まさに「人生」は、些細な選択の積み重ね。「正解」を選び続けるなんて、そりぁもう至難の業だといえる。


だが、とりあえず現代は選択の時代ということで、選択能力こそが“現代人の力”という具合。なにしろ選ぶわけです。とにかく選ばなきゃいけないんです(笑)。日々カラダにいいと言われている食品を選んだり、地球環境に配慮していると言われている商品を求めたり、自分に似合う洋服を探したりと、とにかく大変なんです。


で、それらがとりあえず妥当なのは、すべて本人のための選択だからで、対象が他人に及ぶとなると少し話がややこしくなります。その代表が昨年流行語にもなった「忖度」というやつですね。相手の気持ちを推しはかる選択がなされるので、こいつはかなり厄介。


官僚や政治家でなくても、やはり日常的に「忖度」することは回避できません。他人と関わる以上、私たちだって必ず「忖度」する場面に遭遇するはずです。でも「忖度」って言葉、ポジティブにもネガティブにも使われるので、ほんとうにどんな場面でも万能なんでしょうか?


もちろん、森友学園や加計学園の問題は、いかにも「忖度」が起こるような状況を作ってしまった事自体に問題があるし、この場合の「忖度」は融通を利かせることでニュアンスは「えこひいき(=差別)」に近い。人は意思決定において激しい葛藤に直面すると、簡単に大局観を見失ってしまうんですね。


いずれにしても流行語から一般化してしまった「忖度」という言葉が、ニッポン社会からなくなることはない。だから、何となくおかしいと感じたら、あえて「忖度」しない勇気、時には水を差す勇気を持つことも大切ではないだろうか。たとえその選択が“KY(空気が読めない)”と中傷されたとしても・・・。


それがある意味正常な人の選択の場合もあるかもしれませんよ。


 

 

 

 

2018/03/13 魔法のつえなんてない!

 

「な、ないーーーー?」

「どこいったんだーーー??」

こんなうめき声が聞こえてきそうだ。


テクノロジーの目指す最終局面ともいえる仮想通貨「NEM(ネム)」が不正アクセスによって流出した問題。テクノロジーが進歩していく過程では必ずといって起こりうる問題だろう。


どんなに無知な人でも、どんなに機械に弱い人でも、テクノロジーが凄まじい勢いで進歩していることは理解している。とはいえ、具体的にどのテクノロジーが世界を変えるほどのインパクトを与えるかを予測することは難しい。いずれにしても人類は、構想した物事を次々とテクノロジーの進歩によって具現化してきたし、私たちが歩んでいく薄ぼんやりとした未来を、テクノロジーという灯りが照らしてくれているのも間違いない。


だが、テクノロジーは、私たちの周りにある課題を何でも解決してくれる「魔法のつえ」じゃない。
ビル・ゲイツが指摘するように、うまくいっているものはよりうまくいき、うまくいっていないものはよりひどくなるという「増幅の法則」があてはまるツールにすぎないのだ。


「うまくいっている」状態をつくるのは、人の心、知性、意志などの内面的成長であり、そのためには人による粘り強い対話が欠かせないはずだ。にもかかわらず、テクノロジーを駆使した仕組みが、問題を解決してくれるかのような幻想が横行している。


私たちには、もはやテクノロジーを「使うか、使わないか」という選択枠はなくて、あるのは「使うか、使われるか」なのだ。格差の広がる社会では、それを是正するために開発されたテクノロジーも、結局は格差を拡大させただけにすぎず、弱者を容赦なく切り捨てていく。それは、とても危険で悲しいことだ。


しかし、いくらテクノロジーが変化して私たちのライフスタイルが変わっても、人の繋がりや優しさ、嫉妬や憎悪など、コアの部分はなかなか変わらない。私が大切だと思うことは、こうした普遍的な人の本質を理解すること。それはテクノロジーの進歩が、人の本質を映し出す鏡の役割を果たしている様な気がするからだ。


無知な私には、nanaco(ナナコ)やICOCA(イコカ)のようなカードにチャージした金額が増えたり減ったりするのと同じように思える仮想通貨(例えが悪いかな)。


結局、いまそこにある未来に「魔法のつえ」なんてないのだ!


私たち自身が「魔法のつえ」にならない限りは・・・。
 

 

 

2018/01/24 シャッター通りに物申す

 

商店街のシャッター通り化と、大型商業施設の郊外への出店。このふたつは今の地方都市では、おなじみの風景といえる。


こんなこと書くとお叱りをうけるかもしれないが、いわゆる商店街が衰退した原因は「大型店に客を奪われた」からではなく、自治体と商店街側にあるのではないか。
様々なテーマで町おこしに取り組んだり、メディアなどに取り上げられて「成功した」と当事者が自慢するにもかかわらず、商店街が閑散としているケースが全国的にいかに多いか・・・。


地元の商店街で消費せずに現状を直視出来ない公務員も多いし、既得権益を守り助成金に頼る一部の商店主から出てくるのは、どこかの成功例を表面的になぞるようなプランばかりだ。


確かに、イベントをすればある程度人は集まる。だが、商店街を再生させるには、イベントでいちげん客を呼ぶのではなく、いかにリピート客を獲得するかが重要なのだ。もちろん、そんなことはみんなわかっている。でも、これがなかなかどうして難しいのだ。だから安易なイベントに頼ってしまう現実。


下手な町おこしは、自らの「死期」を早めるかもしれない。これまでの商店街再生事業が成功しなかったのは、「商店街のため」という視点しかなかったから・・・。商店街を再生させるためには、顧客目線に立ち、「私益より公益・交流」を大切にすべきで、地元住民がコミュニケーションする場所として機能できれば、生き延びられるかもしれない。
しかし、それもなかなか難しくなっている。かつては普通だった風景を、いま取り戻すということが何よりも困難な時代だけに・・・。


結局、"点"の開発ではなく"面"での開発が重要で、思い切って都市計画をやり直し、もう一度街を作り直すくらいの覚悟がなければ無理だろう。将来の街づくりを見据えた事業として取り組むことができれば、多くの市民の共感を得ることもできるはずだ。


次世代にどうやっていい状態で街を継承していくのか。行政に頼るだけでなく持続的に維持できる仕組みを今こそ真剣に考えなければいけない。若くて優れた人材を育む場、働く場、暮らす場としての魅力を高めていけるような商店街であってほしいと願う。


だが、最近の若者と話をすると、若者たちにとっての「地元」には、もはや既存の商店街が含まれていないことがよく分かる。彼らにとっては「ほどほどの楽しみ」を与えてくれる大型商業施設こそが地元なのだ。


いったいどうすれば、このギャップを埋めることができるのだろう・・・。