Kure-Kanbutsu Co.,Ltd.

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しゃコラ2015

しゃコラ2015

  • 2015/12/28 年末のやっかい事

     

    師走に入ると‘やらなきゃいけないリスト’みたいなモノが脳裏をちらつき始める。中でも年末のニッポン人を苦しめる最大イベントが大掃除だろう。ただでさえ忙しいこの時期、せめて大掃除がなかったらどんなに心安らかでいられるか・・・。少しでもラクに大掃除をやっつけるため、‘ズボラ大掃除’のコツを探る。


    ただ、この時期に大掃除をするのは、世界中でもニッポンぐらい。真冬の寒い時期に窓を開け放して水を使うなんて、苦行です。でも大掃除をしないで新年を迎えるのは、‘やるべきことをやらなかった’感が・・・。罪悪感だけでも払拭しとかないと・・・。


    といっても自宅は別として会社については、もはや年末行事のひとつ。事務所から車両まで社員のやる気を引き出し、楽しく効率よくこなすコツはないだろうか?どうせやるならきれいにもしたい。


    ただそこら辺は社員に任せて、私は不要な書類の処分に集中したい。ペーパーレスの時代だといっても実はこれがなかなかのクセモノ。実際にやってみると出てくる出てくるお蔵入りの書類の数々。気後れせずさらに書類の束に深く踏み込むと、「3年前にもらったパティー招待状」「おすそわけでもらったお土産の包み紙」「出番のない企画書(意味不明)」などなど。そしてこれらを処分して次へ進むと、なぜか書類の間に昔の写真が一枚・・・。


    ここまで来るともう、ほとんどホラーだ!


    とりあえず写真は別としても、この勢いで‘いつか’は禁句にして、思い切って全部‘いらない’に分類。結構時間を費やしたが、それでも気分は想像以上にすっきりした。


    それなりに進むと効果も見えてきて楽しくなってくる。だが、そこに‘掃除のパラドックス’が待っている。処分すればするほど、その範囲が広くなってしまうのだ。一度始まっちゃうと止まらない。‘処分する’が‘整理する’に変わり、揚げ句の果てに疲労困憊して、途中で挫折・・・なんてことも。何事もやり過ぎてはいけないのだ。


    書類を処分するということは、ただモノを捨てることだと思っていた。でも、それは大きな間違いだったようだ。
    仕事をすればそれなりに書類もたまって当然。そのプロセスを知っているからこそ、リセットすることも大事となる。結局それを処分できるのも自分自身なのだ。最近では様々な事情でだんだん手抜きになっている。でも大掃除も一緒で完璧じゃなくてもいい。今年一年を自分自身、ちゃんとリセットできればOKなんですね。なんだか、やってみると今の自分が見えてきた気がする。


    さあ、あなたも重い腰を上げて、新しい年を気持ちよく迎えるため「年末のやっかい事」をさっさとかたずけちゃってください。

     

     

     

  • 2015/11/21 他人事ではない傾きマンション

     

    連日報道される傾きマンション。施工業者の「データ偽装」によって横浜のマンションが傾いた騒動の収束はいまだに見えない。だが少しずつ明らかになっていくデータ改ざんの背景とともに、資産価値の下落、安全面、建て替え問題など、住民の不安が増す中、専門家は「住宅が傾くこと」によるさらに重大な問題を指摘する。


    それは、住まいの傾きによって起こるさまざまな「健康被害」だ。


    わずかな傾きが危険な健康被害をもたらす。めまい、頭痛、不眠症、そしてうつ病まで…。マンションに限らず傾いた住宅に住んでいると思わぬ健康被害を招くことが、さまざまな調査で立証されているらしい。


    手抜き工事、地盤沈下、建物の劣化など様々な理由で建物は傾く。あなたにとっても他人事ではないかもしれない…。傾きが見つかったらまずは原因を特定し、状況に応じた改善策を考える必要がありそうだ。


    「しかし、なんてことしてくれるんだ!」


    まさか、そんな重要なところで意図的に偽装工事が行われてるとは、ふつう考えない。それがどれほど大問題かを一番分かっている施工担当者がそんなことするなんて…。


    「あんな大きな会社が欠陥工事とは」「信じてたのに裏切られた」と、驚きと非難の声がやまない中、日に日に私たちの不安は大きくなるばかり。それは、「うちのマンションは大丈夫か?」「もし何かあったら補償してくれるのだろうか?」ということ。
    今の世の中、私たちの身の回りでは様々な場面で“損”に対する補償のボーダーラインが、あまりにも曖昧な気がする・・・。驚くべきことに、そこに明確な規定はない。


    また、事業主は住宅の買い取りやマンションの建て替え、その間の仮住まいの費用負担、精神的負担への補償などを検討するというが、それを行うのも簡単ではないだろう。
    住民にとっては立て直すといわれても、またそのまま住み続けるにしても問題の長期化は避けられず「家の傾き」は「人生の傾き」につながりかねない。今回の騒動は、住民の人生も大きく変える一大事となってしまった…。


    結果次第では、2005年に発生した耐震偽装の「姉歯事件」を上回る、大きな問題に発展する可能性も秘めている。結局、建物は人間の手で作られているので100%完璧はありえないということか。

    こういった事件が起こると決まって役員たちが並んで頭を下げ謝罪する姿が報道される。


    だが、「いくら深く頭を下げても、杭はもうこれ以上深くはならない!」


    こんな住民の叫び声が、聞こえてきそうだ。

     

     

     

  • 2015/10/22 子どもを科学する

     

    少子化の問題がクローズアップされる現代、子どもを取り巻く環境に対する不安は、それ以上に大きくなっている。氾濫する情報と多様化する遊びの激流にもまれながら、今の子ども達はどんな未来を目指すべきなのか・・・。


    大人でさえも戸惑い、時に自分を見失うほどに翻弄される現代社会の急激な変化の中で、子ども達はどのように今の時代を受け入れているのだろう?
    そう考えるのは、今の大人達だけではない。いつの時代でも“子ども達は大丈夫なのか?”という不安と“何かをしてあげられるのではないか”という使命感の狭間で大人たちは悩み続けている。


    そんな世の中だが、子ども服をはじめとした子ども用品の売り上げは悪くないという。少子化は続いているのに?と思ったが、今どきの子どもはたくさんの財布を持っているらしい。それは少子化によって両親と祖父母からの贈り物がひとりの子どもに集中するからだ。さらに、おじやおばの財布を含めると数はもっと多いかもしれない。


    世の中には子ども用として作られた商品がたくさんある。ファッション、おもちゃ、文具、家具、食品、菓子から、子ども専門の美容院から写真館まで・・・。
    私達はこうした風景を当たり前のものとしてみているが、「子ども用」というジャンルは近代になって発見され開発されてきたので以外にも歴史は浅いらしい。


    冷静に考えてみれば、それは不思議な世界だ。


    なぜ子ども用だからと言って、ピンクや黄色や水色などカラフルな色使いでなければならないのか。なぜ花や動物や乗り物の絵が付いていなければいけないのか。なぜサンリオやディズニーなどのキャラクターが必要なのか。なぜ単に小さいだけではダメなのか。いや、そもそも大人と一緒のものを使ったからといって何か不都合でもあるのか。


    商魂のたくましさが子ども用品を生み出してきた、と言ってしまえば簡単だが、事はそう単純ではなさそうだ。


    現代社会では家族のイメージが子どもを中心に形成されている。昔の家の象徴が家長なら、今の家のそれは「子ども」。子どもらしい子ども部屋がある家が中流家庭の証となる。子どもの感性や才能を伸ばす教育や、その観点からの玩具が求められる。子ども用品の向こうに透けて見えるのは、子どもを思いやる心だけではない。虚栄心や「子どもらしさ」をめぐる勝手な大人側の思い込みなどもあるのだ。


    あふれる子ども用品に囲まれて、今の子ども達は本当に幸福なのだろうか・・・。


    どうやら子ども達の未来は、私達大人にかかっているようだ。

     

     

     

  • 2015/09/14 スキャンダル報道は、いつも天国から地獄

     

    2020年開催の東京オリンピックの公式エンブレムが「ベルギーにある劇場のロゴにそっくり!」という突然の指摘に端を発した有名デザイナーS氏のパクリ疑惑。一時期どのチャンネルも朝から晩まで、この前代未聞のスキャンダルを大きく伝えていた。


    当選当時はS氏の経歴、おしゃれなオフィス、作品集などを大きく持ち上げ、有能なクリエーターの紹介といった報道だったのに、疑惑発覚を境に一気にバッシングへとなだれ込む、いつものマスコミの姿勢。


    S氏の「人生の成功者」と「パクリ専門クリエーター」という人物像は、同じニュースの枠の中で語られることで「接続詞」がはさみ込まれる。そして、つなぎ合わされたふたつの人物像は文脈化し、ひと続きの物語となって視聴者に印象づけられていくのだ。


    STAP細胞論文問題で大きく注目された理化学研究所のOさんの時と同じものを感じた。あの時も「ヒロイン」と「ねつ造者」というふたつの人物像は接続され、「リケジョ(理系女子)が持ち上げられ、落とされる」というスキャンダラスな物語として生成された・・・。


    マスコミの作りだす物語は「筋」という統制された原理に従って様々な出来事をひとつの「解釈」にまとめていく力を持っている。「解釈」は本来、受ける側の自由に委ねるべきもののはずだ。しかし、ずら~と並んだ各局のニュース番組はそれを決して許さない。「夜のニュース枠のワイドショ―」化は、まさにその名前をして、出来事を伝える役割から退き、ニュース番組が物語生成装置になったことを意味している。


    とりわけ疑惑めいたスキャンダラスなニュースが起こった日には、それはそれは顕著になる。特定の事件に語りは群がり、「解釈」のインフレーションが巻き起こる。すると当然、そのストーリーに合流できない出来事は隅に追いやられ、または時間枠からはじき出され、葬られる。一見私たちの周りにはニュース番組がたくさんあるように見えても、実は報じられる出来事の数は減っていて、解釈の多様性も制限される偏った流れが生じている。


    だからといってスパッとテレビをあきらめ、単純にインターネットに頼ることもできっこない。なぜならネットは逆にニュースを極端にまで断片化し、そのことによって多様な情報との出会いを狭め、「うわさ」というもうひとつの物語の生産を後押ししてしまう危険があるからだ。


    「情報選択」と「解釈」の自由を守るために、新しい「真の報道」の形態が、いまこそ構築されなければいけないと切に思う。
    急がないとネットの書き込みとほぼ変わらないことを大きなメディアがやる事態になりかねない!

    コワイ、コワイ・・・。

     

     

     

  • 2015/08/15 勝った方が全て正しくて、負けた方が全て悪いのか

     

    「戦後」と言われ70年が経った。多くの尊い命を犠牲にした末にたどり着いた今日の平和。戦後昭和史、戦後教育、戦後レジーム等々、あの戦争が終わって70年の歳月が経っても、日本語で書かれる文章の世界では「戦後」と冠をつけた言葉が多い。


    そもそも「戦後」ではなく、なぜ「敗戦後」と言わないのだろう。「戦後」は“もはや戦後ではない”と、かなり前から言われておきながら、いまだに終わらせることができないのはなぜなんだ。


    敗戦国ニッポンにとって「戦後」は「戦前」の否定の上に成り立っている。しかし、正直なところ“勝った方が全て正しくて、負けた方が全て悪いのか”という割り切れない部分がどこかに残存している。実はニッポンが「戦後」から抜け切れずにあの戦争の影をずっと背負い続けてきた背景は、ここにあるのではないだろうか。


    確かにこの国は負けた。完璧に負けた。国策を見誤り、その結果、たくさんの国民をも犠牲にした。また、アジア諸国に対しても多大な迷惑をかけたのも間違いない。近隣諸国からは、何かあればいつも‘歴史認識’を問われ、政治に過去の歴史が都合よく利用されてきた。そして、いまだにあの戦争の後遺症に悩まされ、国際的な理解も‘敗戦国ニッポン’から一歩も抜け出すことができないでいる。


    だが“勝ったからといってどんな行為でも自動的に正当化されるわけではないはずだ”と、あえて問いたい。
    たとえば大空襲や原爆投下など無差別爆撃は本当に必要だったのか。ナチスドイツや旧日本軍の残虐行為に規模の点では及ばぬながらも、同じように人道に反する戦争犯罪ではないのか。


    敗戦国のニッポンでは一般市民が多数犠牲になった大空襲や原爆投下は、人道に反するとの考え方が一般的だ。しかし、戦勝国にとっての「正義の戦争」で主要都市への爆撃は、軍事上必要だった、という正当化論が圧倒的なのだ。


    だから今こそ一般市民への無差別爆撃を断罪し、負けた方から提唱する意味は大きく、時代をこえて偏在する‘良心の声’を伝えなければならない。


    70年の歳月を経た今、改めて過去を直視することが勝った方にも負けた方にも課せられている。双方に問われていることは、あの戦争での「それぞれの過去」であり、それをいかに認識するかという「それぞれの今」なのだ。


    「戦後」をきちっと終わらせるためには、あの戦争で多くの一般市民が犠牲になったことを「しょうがない」で片付けてはいけないと思う。“勝った方が全て正しくて、負けた方が全て悪い”では、いつまでたっても「戦後」を終わらせることなんかできるわけがないじゃないか。

     

     

    あとがき

    終戦から70年、あの戦争で犠牲になられたすべての人々に対し、心からの哀悼の意をささげるとともに、改めて遺族のみなさまに衷心からのお悔やみを申し上げます。

     

     

     

  • 2015/07/07 家飲みビールの達人!

     

    暑い日に飲むよく冷えた一杯のビール。その味に、どれだけ癒されたことだろう。ビールは毎日仕事を頑張ってる大人のためにあるといっても過言ではない。だから、どうせ飲むんだったら、誰だって美味しく飲みたいはずだ。


    そこで先日ビールメーカーさんから教えてもらった、家でもお店のように手軽に美味しいビールの飲み方を紹介します。ちょっとしたコツで、家飲みビールもぐっと本格的になるので、この夏ぜひ実践してもらいたい。


    たとえば、今や主流の缶ビール。実は缶ビールは、そのまま飲むよりグラスに注いで飲んだほうが美味しいらしい。そのままグィッと飲みたいところを我慢して、できる限りグラスに注いで飲むのがまずは基本。


    ただよくやるのが、グラスを冷凍庫でギンギンに凍らせてからビールを注ぐやり方。でも、これって実は間違い!瞬間的にビールの味が変わってしまうのでNGとのこと。


    ひとくちにビールといってもその世界は実に奥深く、知れば知るほど魅力的。たかがビールと侮ってはいけない。最高の一杯を追い求める“家飲みビールの達人”への道は厳しいのだ!(笑)

     

       
         

     それでは、家飲みビールが美味しくなる方法を紹介しよう。


    まず、自然乾燥(ここ重要)させ冷蔵庫で冷やした、縦長のビールグラスを用意。

    最初にグラスを立てたまま、よく冷やしたビールをグラスの2/3ほど勢いよく注ぎ、泡だらけにする。

    次に泡が半分ぐらい液体に戻ったら、炭酸が逃げないようにグラスを少し斜めに傾け、再度ビールを泡がグラスの口へ盛り上がるまでやさしく入れる。

    最後にグラスを置いて10秒ほど待ち、泡がこぼれるギリギリまでビールを注いで、泡を盛り上がらせたら完成。

    そして飲む時は、グラスだけを傾けるのではなく、自分の首も傾けて少し上を向くような感じで飲むと、泡と一緒にビールが美味しく飲むことができます。


    どうです、すぐにでも実践したくなったんじゃないですか?
    ポイントはとにかく「泡」。泡立ち、泡持ち、泡付着・・・、いい泡をつくることが大切なんですね。


    さあ、ビールが美味しい季節となりました。あなたも“家飲みビールの達人”を実践してみませんか。

     

     

     

  • 2015/06/06 つけあわせの実力

     

    サンドイッチの横に鎮座するパセリ、刺身のそばで飾りのように存在する大根のツマ、彩りとしか思えないステーキのクレソン…。それらの食材を私たちは「つけあわせ」と呼ぶ。

     

    お皿の上にはあるものの、なぜか口には入れずにそのままスル―。これを食べたら下品では?なんてとりすましてみたりして…。店員さんも、パセリやツマが皿に残っていようがいまいがおかまいなしに「お下げしてよろしいですか?」などと聞いてくる。


    でも、ちょっと待った!! これらの食材はホントに飾りでしかないのだろうか。


    まだまだあるぞ~、から揚げのレモン、焼き魚の大根おろし、カレーのらっきょうと福神漬け、牛丼の紅しょうが、etc…。こんな彩りや飾りだけじゃない、つけあわせで添えられている脇役食材の真価を私たちはどこまで知っているのだろう。


    実は食べるべきなのでは…?そんな疑問を持ってる人も多いはずだ。


    多くの場合、つけあわせは料理の味わいや彩りを良くするために加えられる。
    ニッポンでは主に、料理の味を引き立たせるために添える食材を指すことが多いが、つけあわせには抗酸化作用があったり、消化吸収を促すなどメイン食材の欠点を補う効果が多々ある。

     

    また食欲増進効果や疲労回復効果などこれから夏に向けて知っておきたい効能もあるのだ。やはり定番として添えられているものには、それなりの理由があるということ。


    「食べても大丈夫?」などと悩む必要はない。相乗効果で身体に非常にいい作用があるので、むしろ積極的に食べてもらいたい。


    これからは「つけあわせ」の実力を正しく理解し、忘れず完食を!

     

     

     

  • 2015/05/16 大人の事情でFacebook

     

    当たり前のことだが、人はみな固有の「事情」を抱えて生きている。他人には言えない事情もあれば、知られて差支えないものもある。しかしそういった個々人の事情などに無関心なのが、この世の、それこそ「事情」というものだろう。

     

    よんどころない事情により、あれだけ「やらない!」と言っていたSNSの代表格Facebookを始めた私・・・。そもそも会社でFacebookを活用するため始めたはずが、個人のアカウントを必要としたため始めてみると結局会社と個人、両方やる羽目になった。

     

    他人から見ればどうでもいいようなことでもネタとなるFacebook。なんとなく始めた私だが、だんだん、私を私たらしめた人生上の「事情」に引き込まれていき、ひるがえって自身の過去の「事情」に思いをいたすようにもなっていく・・・。

     

    どんなに近い間柄でも、互いに知らないことはいくつもある。そして、どんな投稿も人間関係のすきまをボタンひとつで駆け抜けて行く・・・。そのしなやかな身のこなし、やわらかなたたずまいまでも、投稿はそっと映し出す。

     

    投稿が映し出す時間は、ありきたりの日常を行ったり来たりしてやがて見事に層を成していく。また、過ぎた時間の空気をさりげなく呼び込む方法にも、人々の気配が確かに宿る。

    自分に関係ある投稿がFacebookに発生したことを通知でいつでも知ることができるし、通知が来なければ、その日のFacebookは自分にとってバリューが低い日なのだということを思い知ることもできる。

     

    それぞれの日常のあいだを、すり抜けていくFacebook。すべてが包み隠さず語られ、さらけ出されることが当たり前のことのように要求される。
    そんな些細な事情を淡々とさらけ出すことで私は自分の正体をさらそうとしている、完全に・・・。

     

    だがそれは、もしかしたら情報の取捨選択ができる大人向けの世界観なのかもしれない。若年層のメールやLINEのような、全く情報の取捨選択ができずに、やっかいな人間関係が反映された情報に、心も行動も縛られてしまう世代だと、こういうのは、もしかしたら難しいのかもしれない。

     

    実は始めてみて思うのだが、Facebookの世界観をコラムに持ち込みたくないけど逆はいいよね、と思っていて一方的にコラムの投稿をFacebookにpushしてみることを試してみようかと思う。コメント欄にしても投稿にしてもコラムとSNSの併用をどうするかっていうのもまだ試行錯誤中なので、また方針や運用方法が固まったらコラムにするつもり。

     

    複雑な人間の心理を単純な言葉で伝えることは、簡単なようで実は難しい。こうやってコラムでくどくど書くのとはわけが違う!堅苦しい言葉をできるだけ控え、簡単かつ思いがこもった投稿を書くコツを是が非でも会得したいものだ。さらに効果的な絵文字の使用は、ワンランクアップの印象を与える。極めつけは、撮った画像の加工,編集テク。使いこなせれば誰でも一気に上級者気分を味わえる必殺技となり得る!!(笑)

    とりあえずFacebookの場合、『習うより慣れよ』ですね!

     


     

     

     

  • 2015/04/17 64(ロクヨン)

     

    作家であれば誰もがベストセラー作家になれるわけではない。どんなにクオリティーの高い小説を書いても、相当数の老若男女、つまり万人に読んでもらえるとも限らない。さらにベストセラー作家になったとしても、その地位を維持することは、より一層大変だ。誰もが楽しめる作品を絶えず発表し続けなければならないのだから・・・。

     

    横山秀夫はかつて、そういう作家だった。作品の多くが映像化される人気作家だった。1993年に「陰の季節」で松本清張賞を得た後、2000年に「動機」で日本推理作家協会賞(短編部門)を受賞。そして2002年のあの「半落ち」がベストセラーとなったのだ。ところが「震度0」を2005年に刊行した後、体調を崩したこともありそこから長い沈黙期間に入った。


    そして、本作は2005年に発表された前作から7年ぶりの長編ということになる。2013年「このミステリーがすごい!」や「週刊文春ミステリーベスト10」などで1位に輝き完全復活した作品。

     

    ロクヨンとは昭和最後の64年に起きた未解決の少女誘拐殺人事件のこと。警察内部を鋭くえぐる究極の警察小説だ。
    650ページもあるずっしりとしたボリューム感は、ハンパではない。読み始めは少しスローな感じだか、次第に物語へと引き込んでいく手法はこの人の得意とするところか。まさしく長い歳月、目に見えない地下で活動していたマグマが一気に噴火したような迫力に圧倒される。

     

    この作品が傑作たるゆえんはいくつかある。ひとつは横山秀夫自身の視点の忠実な再現ではないだろうか。
    作者が得意とする警察小説の究極のカタチへの原点回帰。主人公に外的から強い負荷を与えて、内面を立ち上がらせるという独特の小説の作り方。長い年月の重みに耐えながら生きている男の姿が、作者ならではの視点とともに存分に描かれている。
    じっくり心に染み入る迫力あるエンターテイメントを完成させるために、作者自身、歳月を重ねたのだろう。それがじわ~っと感じられる作品だ。

     

    話題性もあり明日18日より、NHKの「土曜ドラマ」にてテレビ放送される(全5回)。さらに2016年には『64-ロクヨン- 前編/後編』の2部作として映画化され全国公開される予定とのこと。
     

    まずは原作を要チェック。

     

     

     

  • 2015/03/31 背番号15 一球の重み

     

    人は誰でも、簡単には譲れない部分、つまりプライドを持って生きている。それは自分という存在の根幹となるものだ。けれど、ある局面で、誰かのためにそれを投げ出さなければならない時が来る。そんな時、すんなり正しい決断ができるものだろうか。


    メジャーで活躍した選手がニッポン球界に復帰すること自体は珍しくない。でも、でも、である。これまで復帰した選手はいずれも力及ばずだったり、故障したり、あるいは選手として峠を過ぎていてメジャー契約が取れなくなって出場機会を求めて戻ってくる、といったパターンだった。


    だが、あの男は違った。“一球の重み”を一番大切にできる場所を求めて熟慮に熟慮を重ねて決断したのが、古巣カープへの復帰だった。大リーグの高額のオファーより育ててくれた球団のために、自分を待っていてくれたファンのために下した決断。ファンならずとも胸が熱くなる話ではないか。


    その決断は、たちまち全米に驚きとともに伝えられた。米球界の関係者にとっては、理解に苦しむ決断なのかもしれない。古巣への愛情を貫いた右腕の‘おとこ気'あふれる決断に国内外を問わず称賛の声が相次いだ。ニッポン男児の株をさらに上げてくれたのだ。
    これから大リーグを目指して旅立っていくニッポン球界の選手たちの今後の生き方、考え方にも大きく影響を与える出来事に違いない。

     


    3月29日、カープ復帰後の初登板の試合 

     

    カッコイイだけじゃダメだ、その人間のバックグラウンドから出てくるリアリティがないとダメなんだって、みんなわかってきた。
    カッコイイだけの言葉ならいくらでもある。それこそ町中にあふれている。でも言った人間のカッコイイ生きざまがそのままにじみ出る言葉には、なかなか出会えない。ヒリヒリする感じが詰まっていて、あの男がこだわり続ける言葉。


    それは、“一球の重み”、その控えめな言葉に律儀な人間性がのぞく。


    ニッポン球界に、久々にさわやかな風が吹いた。その風は、停滞する現代ニッポンの暗雲をも吹き払ってくれるに違いない。

     

     

     

  • 2015/03/26 父親と激突、家具屋姫(かぐや姫)の誤算

     

    ○○家具の史上最大の親子ゲンカ。いや、とても親子ゲンカといったゆるい表現では収まりきらない親子の壮絶な泥仕合は、株主総会が近づくにつれてより激しいものとなってきた。こんな騒動になるとは、当事者たちも想像していなかったはずだ。


    企業内部に混乱が発生し、株主総会での委任状争奪の応酬が続いている○○家具の“お家騒動”には、まったく落としどころが見えない。創業者の父親である会長が始めた会員制システムと、社長である長女(家具屋姫)の主張する気軽に入れる店舗戦略が真っ向からぶつかる構図は、もはや収拾がつかない事態。
    どちらの戦略も「なるほど」と外野としては思うのだが、会長も社長もお互いの戦略に関して全く聞く耳を持たない状況は異常だ。


    企業には従業員がおり、たくさんの取引先もある。さらにその先には消費者もいる。何よりも、客商売に必要な信用、イメージに対してはこの内紛劇はマイナスにしか働かないことはわかってるはずだ。


    家具業界では、安くて品質の良い商品を提供するニトリホールディングスや、スウェーデンの家具販売大手「IKEA(イケア)」など、ライバルの新興勢力が着々と力を伸ばし、○○家具の経営をめぐる環境は厳しさを増している。
    さらに長期的に見れば、少子高齢化が進みそれに伴う新設住宅着工戸数の減少が予想され、国内の家具・インテリア市場は縮小傾向にあるとのこと。早期に健全な経営体制を確立しなければ、顧客離れが進むことにもなりかねない。そんな時に親子で争ってる場合じゃないだろう。


    でも、いよいよ○○家具の混乱は、明日の株主総会で決着がつく。しかし、株主総会でどんな結果になろうと、二つに割れた家族の間に、大きな溝ができることは避けられない。それが新たな内紛がおこる可能性を含んでいないだろうか。
    父と娘という関係は、こじれやすいものだと言われるが、他人から見てもあまり気持ちのいいものではない。なまじ親子という関係で本心のぶつかり合いが生じ、修復のできないところまで達してしまったのか・・・。父親の死去を受けて後を継いだ私にとっては、なんとも理解に苦しむ話だ。


    『ものわかりのいい親を演じるのは難しい・・・』


    ふと私の父親が言った言葉を思い出した。○○家具の会長もおそらく同じ思いに違いない。親なんてみんなこんなもので、親の気持ちは親になってみなければわからない。現社長にとっても「子の立場」という観点から見ると理不尽に思えることが「親の立場」になってみれば多少だが理解できるようになるはずだ。

    株主総会が終わったら、経営戦略をどうこうする前に父親を含む家族との関係修復を急ぐべきじゃないだろうか。

     

     

     

  • 2015/03/04 “どこでもオフィス”やってますか?

     

    「どこでもオフィス」


    このどらえもんのポケットから出てきそうなモノの正体は、いったい何だ?


    たしかに最近増えている。新幹線の座席に座るやいなや、パソコンを広げてキーボードをたたく人、スタバなどのテーブルに陣取って液晶画面にクギづけの人・・・。そんなに忙しいスケジュールに追われているのだろうか、と同情していたが、彼らは「どこでもオフィス」の実践者だったようだ。

    実際、それで仕事がはかどっているかどうかは、とりあえず置いといて・・・(笑)


    「どこでもオフィス」とは、オフィスにいなくても何だってできるように作業環境を整備すること。


    最近ではビジネスを取り巻く状況は大きく変化してきていて、より機動的な対応が求められているとは思う。成果を出すために「時間・場所」は関係ない!あらゆる場所をオフィスに変え、環境や場のリソースを使い分けながら、効率・集中・アイデアを劇的にアップさせることが求められているのだ。


    確かに、私もスマホやダプレットなどを活用して出張先からメールをやり取りしたり、会社に届いたFAXも外出先で確認することができるようになって、昔と比べて便利になったもんだと思う。


    でも、と思う。新幹線に乗ったら弁当やコーヒーを頼んで窓越しに景色を眺めたいし、用件だけのメールではなく、ムダ話をしながらでもちゃんと物事を決めたい。それでも間に合わないのなら、「まあ、いいか・・・」ってわけには、いかないんでしょうかねぇ。


    今日まで社会は私たちの都合のいい理屈で、より早く、より便利に、より快適に過ごせる世界をつくってきた。カラダを使わなくても移動できるし、ものを考えなくても過ごせ、周囲に働き掛けなくても目的を達成することができる。コンビニでは、黙っていても買い物ができるし、支払いもいちいち計算しなくてもカードを使えば一発でOK。
    いつの間にか私たちのまわりは、こんなにも便利な世の中になってしまっている。


    その便利な社会を昔に戻すことは不可能なことかもしれない。しかし、もっと自力でカラダを使い、リアルなモノを見聞きし、直接感じ触れ合うことでしか、人間の感性や思考能力は育たないはずだ。


    「どこでもオフィス」


    あんなこといいな、できたらいいなと、オトナにとっては一見「夢のある」世界のように見えるが、これもグローバルな競争社会が生み出した新たな弊害なのだろうか。

     

     

     

  • 2015/02/15 会いに行こう、風景と人に・・・

     

    今月10日、東京出張の時、飛行機の窓越しにきれいな富士山が見えた。こんなにきれいな富士山を見たのは久しぶりだ。


    私は別に熱心な愛国者ではないけれど、ときどきこの国、ニッポンの美しさ豊かさ奥深さに息をのむことがある。
    それは、為政者の言う「国を愛する気持ち」とか「ニッポン人であることを誇る心」とは無縁の、もっと素朴な、もっと単純で素直な感情だ。


    ニッポンは美しい国だと思う。


    季節の移ろう頃には特に、そう感じる。冬から春へ、春から夏へ、夏から秋へ、そして秋から冬へ移りゆく日本の四季。
    二つの季節がせめぎあい、溶けあい、混ざりあう時、思いもよらない美しい風景に出逢える。

     

    それがニッポンという国なのだ。


    そういう風景に逢いたくなって、街に繰り出すと、たまに、そこに美しいモノを見ることがある。移ろう季節だけが生み出すやさしい美を見る。
    それは、この国の美しさを再認識する瞬間だ。


    ニッポンは資源をあまり多く持っていない。でも、こんなにもたくさんの風景を内に抱えている。これって、ほんとはスゴイことなんじゃないだろうかと、改めて思う。

     

    暦の上ではすでに春。

     
    机の前を離れ、会社を離れ、しがらみを離れ、束の間、せめて心だけでも風景に逢いに出かけたい。
    山も木々も草花も、私たちを待っていてくれる。

     

    なんだか今日は、そんな気がしてならない。

     

     

     

  • 2015/01/24 思い出の記録媒体

     

    なんのかんの言っても見た目は重要である。
    「見た目がどうかなどは距離の問題に過ぎない。少し離れてみている分にはルックスも問題になるだろうが、距離をつめていったら、もう人柄とか性格の問題になってしまう…」そういった意味のことを言っていた人がいる。「100メートル離れちゃったらみんな同じですからねえ」と…。


    確かに一理ある。しかし、だからといって「人間は見た目じゃない、中身だ!」などという前近代的語句をひっぱり出されることには、やはり抵抗がある。「あの人は人柄がいいから…」「人間性が素晴らしい…」など、どう考えてもイマイチわかりにくい。そんなわけのわからない内面性だとか人間性なんていう曖昧なものをあてにするくらいなら、まだはるかに「見た目」や「ルックス」を私は信用する。


    ロックミュージシャンにとってもルックスは重要で、かなりの確率をもってとりあえず聞くか聞かないかは、そのミュージシャンのルックスから判断されている場合がある。ファッションを軸に大抵の場合、見た目でそのジャンル分けが可能でもある。ただ最近はベテランと呼ばれる大御所ロックバンドたちの活動も積極的で、もうルックス的にはちょっと・・・、と思う人もいるのは正直なところだ。中には、ポッコリおなかにハゲ頭なんて、とてもロック的とはいえない人もチラホラ。


    今やちょいワルおやじ風な感じが、年季の入ったロッカーの上手な歳の取り方といえる。だがそれがなかなかどうして難しいのだ。雑誌や映像で久々に御対面した往年のロックスターにガッカリ…、なんてことも良くある話だ。まあ、それだけロックが長く愛されている裏返しかもしれない。

     

     
    チケット   サイン入りポスターとTシャツ

     

    さて、70年代の英国ロック・シーンを揺るがせた伝説のロック・バンド、モット・ザ・フープルのヴォーカリスト、イアン・ハンターがついに来日した。いまだに来日したことがない最後の大物アーティストといってもいい。東京・下北沢GARDENで行われた公演に乗り気でない妻を無理やり引き連れ行ってきた。

     
    “イアン・ハンター”と聞いてピン!とくる人が何人いるだろう。英国や米国では、レジェンド扱いだが、ニッポンでは残念ながら知名度はほとんどないかもしれない。自分にとっていかに大きな存在であるかは別にして、その筋の人々には、それはもう大変な人なのである。はっきりいってファンだと公言するのも恥ずかしいくらいだけど、多分ニッポンのアーティストの中でも隠れファンは多いはず。実は影響受けてたりするものだ。世の中そういうもんである。


    当日は中年ロックファン大集合!と思いきや、中には比較的若いファンも結構いた。特に女性が多かったのにはちょっとビックリ。会場は異様な熱気で、大変な盛り上がり。やっぱ、ライブはいいなぁ。自分にとってロックとの出会いの原点である少年時代が思い出され、正直なところ思わず哀愁にかられた。


    誰だってこの曲を聴くとあの頃を思い出す、というのはあるだろう。私にとってそんな思い出の記録媒体が、圧倒的にロックであることを再認識させられた。自分が見た映画のサウンドトラックを聴くとその映画を思い出すように、自分がよく聴いていた曲を聴くと、そのときの自分の感覚を確かに思い出すのだ。
    すっかり忘れていた過去が不意によみがえり、その時の景色や、一緒にいた人の顔や声、食べていた物の味や匂いまで思い出してしまうほど、ロックがそのときの思い出を「再生」してくれるのだ。いやはや、なんとも贅沢な気分じゃないか。


    そんな私もすっかり中年のロック・ファン。
    私にとってのロックンロール!それは、まるで嵐の中に産み落とされて光り輝く音の渦巻き。都会的なビートに乗って届く、強くやさしい音のメッセージ、といったところ。
    まさにロックは時代の記録者。時代を築いた存在としてロックを通して自分の過去を振り返ってもいい歳になったのだと思う。